おまえはもう書かれている

先人の知恵は偉大なり。

夏の食事

昆布とろというのは、昆布とかつおぶしの煮だしだけでつくるとろろ汁である。夏の朝、食事の進まないようなとき、あるいはなにを食っても口が不味いとき、またはなにも口に運ぶ気が起こらないときなどに、これをこしらえて熱い御飯にかけて食うと、まずは大概美味い美味いで、日ごろの三杯飯は、知らず知らず五杯飯になること請合いである。
北大路魯山人「昆布とろ」)

 

徹夜をして頭がモウロウとしている時は、歯を磨いたあと、冷蔵庫から冷したウイスキーを出して、小さいコップに一杯。一日が驚くほど活気を呈して来る。とくに真夏の朝、食事のいけぬ時に妙である。

夏の朝々は、私は色々と風変りな朝食を愉しむ。「飯」を食べる場合は、焚きたての熱いのに、梅干をのせて、冷水をかけて食べるのも好き。
林芙美子「朝御飯」)

 

喫茶店の清潔なテーブルへすわって熱いコーヒーを飲むのも盛夏の候にしくものはない。銀器の光、ガラス器のきらめき、一輪ざしの草花、それに蜜蜂のうなりに似たファンの楽音、ちょうどそれは「フォーヌの午後」に表わされた心持ちである。ドビュッシーはおそらく貧血性の冷え症ではないかと想像される。
寺田寅彦「備忘録」)

 

初夏の空気に夏みかんが現はれ、八百屋が黄いろく飾られる。一年中に一ばん酸つぱい物がこの季節に必要なのかもしれないが、すこし酸つぱすぎる。その次は可愛い新じやが。小さい物は生物も青ものもどれも愉しい。びわ、桃、夏のものは林檎やみかんほど沢山はたべられない。吉見の桃畑も今では昔のやうにおいしい水蜜を作らないのかと思ふ。遠方からくる桃は姿が美しくつゆけも充分あるけれど、東京のものほどすなほな味でない。五月六月七月、私たちのためにはトマトがある。どんなにたくさん食べてもよろしい。同時に胡瓜。この辺ではつるの胡瓜も、這ひずりのも、すばらしい物で、秋までつづく。茄子は東京も田舎も、冬の大根と同じやうに日本風のあらゆる料理に最も奥ふかいうまみを持つてゐて、一ばん家庭的な味でもある。
片山廣子「季節の変るごとに」)

 

この鰺は船頭が、魚の游泳層を見てくれるから、コマセを撒いて、脈をとつてゐればよいのであるから、ゐれば誰れにでも釣れる。只愉快なのは、沖膾といつて、釣りたての鰺を皮をむいて、生醤油のまま沖でむしやむしやとやれる事だ。少しも臭くない。この味をしめるともう陸の刺身などは食へなくなる。鮎の背越しもよいが、鰺の沖膾は先づ夏の珍味の一つであらう。もちろん鯖などもやつて見るが、シマアヂに限る。何の沖釣りでもさうであるが、海で食べるものは一切うまい、オゾンで腹が空くのか、後で後悔するほど人はたべる。といつて船暈はたまらないが、度々行くうちには船暈など先づ先方から逃げてゆく、そこが又沖釣りの爽快さである。
佐藤惣之助「夏と魚」)

 

れいしは、あちらこちらの家でも、わざわざ棚をかいてつくっていたが、ぼくの家でも、毎年夏になると、父がれいしの棚をつくって、そこにぶらさがったのをもぎっては、チャンプルーにしたものである。沖縄では、赤くなったれいしは食べない。青いうちに、チャンプルーにして食べるか、あるいはうすくきざんで、砂糖をきかせた酢の物にして食べる。

なお、沖縄の豆腐はかたいので、チャンプルーにしても水気がなく、出来上りがさらっとしている。東京の豆腐でつくるときは、布巾でよくしぼって、豆腐をかたくしてからつくるとよい。
山之口貘「チャンプルー」)

 

世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり
われら心の底に涙を満たして
さりげなく笑みかはし
松本楼の庭前に氷菓を味へば
人はみな、いみじき事の噂に眉をひそめ
かすかに耳なれたる鈴の音す
われら僅かに語り
痛く、するどく、つよく、是非なき
夏の夜の氷菓のこころを嘆き
つめたき銀器をみつめて
君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に祈りするものとなせり
あはれ、あはれ
これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ
高村光太郎「涙」)

強行採決

安保条約改定案が自民党の単独審議、単独強行採決がなされた。これにたいして国民は起って、解散総選挙によって主権者の判断をまつべきだととなえ、あの強行採決をそのまま確定してしまっては、憲法の大原則たる議会主義を無視することになるから、解散して主権者の意志を聞けと二千万人に達する請願となったのであります。しかるに参議院で単独審議、自然成立となって、批准書の交換となったのであります。かくて日本の議会政治は、五月十九日、二十日をもって死滅したといっても過言ではありません。かかる単独審議、一党独裁はあらためられなければなりません。また既成事実を作っておいて、今回解散と来てもおそすぎると思います。
浅沼稲次郎浅沼稲次郎の三つの代表的演説」)

 

ファッシストの何よりも非なるは、一部少数のものが〈暴〉力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る。国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生死を賭して所信を敢行する勇気とに於て、彼等のみが決して独占的の所有者ではない。吾々は彼等の思想が天下の壇場に於て討議されたことを知らない。況んや吾々は彼等に比して〈敗〉北したことの記憶を持たない。然るに何の理由を以て、彼等は独り自説を強行するのであるか。

彼等の吾々と異なる所は、唯彼等が暴力を所有し吾々が之を所有せざることのみに在る。だが偶然にも暴力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるか。吾々に代わって社会の安全を保持する為に、一部少数のものは武器を持つことを許されその故に吾々は法規によって武器を持つことを禁止されている。然るに吾々が晏如として眠れる間に武器を持つことその事の故のみで、吾々多数の意志は無の如くに踏み付けられるならば、先ず公平なる暴力を出発点として、吾々の勝敗を決せしめるに如くはない。

或は人あっていうかも知れない、手段に於て非であろうとも、その目的の革新的なる事に於て必ずしも咎めるをえないと。然し彼等の目的が何であるかは、未だ曾て吾々に明示されてはいない。何等か革新的であるかの印象を与えつつ、而もその内容が不明なることが、ファッシズムが一部の人を牽引する秘訣なのである。それ自身異なる目的を抱くものが、夫々の希望をファッシズムに投影して、自己満足に陶酔しているのである。只管に現状打破を望む性急焦躁のものが、往くべき方向の何たるかを弁ずるをえずして、曩にコンムュニズムに狂奔し今はファッシズムに傾倒す。冷静な理智の判断を忘れたる現代に特異の病弊である。
河合栄治郎二・二六事件に就て」)

 

ゼルコフ「一体どうするんだね、この始末は……」

大統領「どうするもないさ。余は余の既定方針に基き、それを強行するまでだ」

ゼルコフ「ちょっと待ってくれ。余の既定方針強行は元気があってよろしいが、しかし実際はどうなんだい。わが艦隊の損害は少くないぞ。ダイホンエイ発表なんか、かなり遠慮して発表してある。それにも拘らず国民は騒いでいる。もし本当の損害を国民が知ったら、どういうことになるだろう」

大統領「小出し発表、遅延発表でないかぎり、国民を無用に失望させてよろしくない。真珠湾で、それはもう試験ずみだからね。今度も、その方式でやっている。これが最善の方法だ」

ゼルコフ「宣伝方法を問題にしているのではない。わが艦隊の弱体化の影響について、君の反省を促しているんだ。今はまだ目に見えて戦局に影響していない。それは今回の総力比島攻撃に用意した物量が非常に大きかったから、その惰力で今は敵を押しているのだ。しかし後二週間経ち三週間経つと、この影響は深刻に戦闘力の上に加わってくる。君は、太平洋に同胞のミイラを多数製造するつもりではなかろうな」

大統領「わが物量は、日本の生産数量に比し、絶対に圧倒的である。余は物量を以て、完全に日本を屈服させ得るという信念を今もって堅持している」

ゼルコフ「困った信念だ。そういう信念は、対日戦の現段階に於て、一日も早く訂正さるべきだ。日本軍及び日本国民を物量だけで屈服せしめることは出来ないのだ。敢えて訊くが、日本軍の体当り戦法に対して、われは適確なる防禦を未だに持っていないではないか」

大統領「適確なる防禦法は、豊富なる物量を持って押すことだ。攻めるも護るも、これで押徹せばよいのだ。遅疑逡巡すれば、そこに破綻が生ずる。君がそういう国家の不利益を、この上もたらさないことを望む」

ゼルコフ「なんだって。そんなぼんくらな考えで大統領でございと納っていられてたまるものか。おれはこれを委員会へ警告しておくからな」

大統領「それは御随意に。余が大統領である以上、それを余の最善と信ずる方向へ向けるのは蓋し当然のことだ」

ゼルコフ「待て。きさまを大統領にしたのは誰だか知って居ろう。国民じゃないぞ。われわれの委員会だぞ」

大統領「余は大統領である。誰が余を大統領に選定したにしろ、余は大統領たるの職権を信ずるところに従って振うばかりである」
海野十三「諜報中継局」)

 

ほかの都市については多く知らないが、今の熱海の市長は人材であろう。去年の熱海の大火のあと、彼は熱海銀座と三階以上の建築は鉄筋コンクリートでなければならぬ、という断乎たる命令をだした。安直手軽なバラックで営業再開をもくろむのは人情で、市民の大半はゴウゴウと反対したが、彼は断々乎として命令をひるがえさなかった。

それが当り前というものだろう。こりることも知らねばならぬし、焼けた以上は焼けたことを利用し、善用するのが当り前の話さ。易きにつきたがるのは庶民の常だが、政治家はそれぐらいの人間性は知らねばならぬし、焼けた以上はこれを計画的に利用して理想の一ツでも行うのが当り前の話だ。

十年たッたッて鉄筋コンクリの熱海銀座ができるもんか、と市民がブウブウ怒っていたが、わずか一年後の今日、鉄筋コンクリの熱海銀座は既に完成に近づいているのである。

熱海市長のこの処置は当り前の処置なのである。戦争だろうと火事だろうと利用できるものは利用して、計画的により良い新作品を工夫するのが当り前じゃないか。けれども、この当り前のことが日本では珍しいのだ。通俗な庶民感情を押えて断行するだけの洞察力も信念もない政治家や市長が普通だ。彼らが庶民感情を抑えつけて強行断行することは、庶民の利益には反するが、自分の利益になることが主である。熱海市長が断行したのはそのアベコベのことである。市民の当座の利益には反するけれども、やがて熱海にとって地の塩たるべき計画性ある根本的な施策であった。奇も変もない当り前の根本的なことであるが、この当然なことが他の焼跡のバラック都市では殆ど見ることができないのである。
坂口安吾安吾の新日本地理」)

 

* 剛直漢掃部頭井伊直弼は、安政五年四月、大老職に就くや、矢継早に、反動的な改革を強行して、勤皇の志士の憤激を買つた。

殊に、将軍継嗣問題と通商条約問題とでは、井伊の傲岸不遜は言語に絶した。

当時の輿論たる一橋慶喜を将軍世子に就けることに反対して、紀州慶福を推したことと、勅許を待たずして日米条約に調印したことである。

孝明天皇は、その非礼に、いたく逆鱗あらせられ給うたのであつた。

天下の志士の井伊弾劾の叫びは、嵐の如く捲き上つたのである。

この時、井伊の輩下たる間部詮勝長野主膳は志士の裏を掻いて、京都のアンチ井伊の主魁と目された頼三樹三郎・山岡慎太郎梅田雲浜等を捕へた。

次いで、志士追及の疾風は、枯葉を捲くやうに、京洛の地を払つた。
菊池寛「二千六百年史抄」)

 

戦争犯罪人というものの行為が及ぼした害悪の大さと深さとにおどろかれる。それらの人々は、経済的に、政治的に祖国を破綻させたとともに、民族の道義をも難破させた。戦争を強行するためには、すべての人民が、理不尽な強権に屈従しなければ不便であった。その目的のために、考え、判断し、発言し、それに準じて行動する能力を奪った。外的な一寸した圧力に、すぐ屈従するように仕つけた。無責任に変転される境遇に、批判なく順応するように何年間か強いて来たのであった。日本人が今日、当然もつべき一個人としての品位と威厳とを身につけていないことを外国に向って愧じるならば、それは、現代日本の多数の人々を、明治以来真に人格的尊厳というものが、どういうものであるかをさえ知らさないように導いて来た体制を、今なお明瞭に判断しつくし得ていないという点について、より慚ずべきであろうと思う。
宮本百合子「その源」)

好きな服

袷は二揃いあるのだが、絹のもののは、あまり好まない。久留米絣のが一揃いあるが、私は、このほうを愛している。私には野暮な、書生流の着物が、何だか気楽である。一生を、書生流に生きたいとも願っている。会などに出る前夜には、私は、この着物を畳んで蒲団の下に敷いて寝るのである。すると入学試験の前夜のような、ときめきを幽かに感ずるのである。この着物は、私にとって、謂わば討入の晴着のようなものである。秋が深くなって、この着物を大威張りで着て歩けるような季節になると、私は、ほっとするのである。つまり、単衣から袷に移る、その過渡期に於いて、私には着て歩く適当な衣服が無いからでもあるのだ。過渡期は、つねに私のような無力者を、まごつかせるものだが、この、夏と秋との過渡期に於て、私の困惑は深刻である。袷には、まだ早い。あの久留米絣のお気に入りらしい袷を、早く着たいのだが、それでは日中暑くてたまらぬ。単衣を固執していると、いかにも貧寒の感じがする。どうせ貧寒なのだから、木枯しの中を猫背になってわななきつつ歩いているのも似つかわしいのであろうが、そうするとまた、人は私を、貧乏看板とか、乞食の威嚇、ふてくされ等と言って非難するであろうし、また、寒山拾得の如く、あまり非凡な恰好をして人の神経を混乱させ圧倒するのも悪い事であるから、私は、なるべくならば普通の服装をしていたいのである。簡単に言ってしまうと、私には、セルがないのである。いいセルが、どうしても一枚ほしいのである。実は一枚、あることはあるのだが、これは私が高等学校の、おしゃれな時代に、こっそり買い入れたもので薄赤い縞が縦横に交錯されていて、おしゃれの迷いの夢から醒めてみると、これは、どうしたって、男子の着るものではなかった。あきらかに婦人のものである。あの一時期は、たしかに、私は、のぼせていたのにちがいない。何の意味も無く、こんな派手ともなんとも形容の出来ない着物を着て、からだを、くにゃくにゃさせて歩いていたのかと思えば、私は顔を覆って呻吟するばかりである。とても着られるものでない。見るのさえ、いやである。私は、これを、あの倉庫に永いこと預け放しにして置いたのである。ところが昨年の秋、私は、その倉庫の中の衣服やら毛布やら書籍やらを少し整理して、不要のものは売り払い、入用と思われるものだけを持ち帰った。家へ持ち帰って、その大風呂敷包を家内の前で、ほどく時には、私も流石に平静でなかった。いくらか赤面していたのである。結婚以前の私のだらし無さが、いま眼前に、如実に展開せられるわけだ。汚れた浴衣は、汚れたままで倉庫にぶち込んでいたのだし、尻の破れた丹前も、そのまま丸めて倉庫に持参していたのだし、満足な品物は一つとして無いのだ。よごれて、かび臭く、それに奇態に派手な模様のものばかりで、とても、まともな人間の遺品とは思われないしろものばかりである。私は風呂敷包を、ほどきながら、さかんに自嘲した。

デカダンだよ。屑屋に売ってしまっても、いいんだけどもね。」

「もったいない。」家内は一枚一枚きたながらずに調べて、「これなどは、純毛ですよ。仕立直しましょう。」

見ると、それは、あのセルである。私は戸外に飛び出したい程に狼狽した。たしかに倉庫に置いて来た筈なのに、どうして、そのセルが風呂敷包の中にはいっていたのか、私にはいまもって判らない。どこかに手違いがあったのだ。失敗である。

「それは、うんと若い時に着たのだよ。派手なようだね。」私は内心の狼狽をかくして、何気なさそうな口調で言った。

「着られますよ。セルが一枚も無いのですもの。ちょうどよかったわ。」

とても着られるものではない。十年間、倉庫に寝かせたままで置いているうちに、布地が奇怪に変色している。謂わば、羊羹色である。薄赤い縦横の縞は、不潔な渋柿色を呈して老婆の着物のようである。私は今更ながら、その着物の奇怪さに呆れて顔をそむけた。
太宰治「服装に就いて」)

 

米国人は雨中といへども傘を携へず。いはんや晴天の日傘をや。細巻の洋傘ステッキの如くに細工したるものは旅行用なり。熱帯の植民地は一日に二、三回必驟雨来るが故に外出の折西洋人は傘を携ふ。日本の気候四季共に雨多し。植民地の風をまなびて傘を携ふべきことけだしやむをえざるなり。ヘルメット帽は驟雨に逢ふ時は笠の代用をなし炎天には空気抜より風通ひて凉しく、熱帯には適したるもの。英国人の工風に創まるといふ。

○半靴は米国にては人々酷暑の折これを用ゆ。欧洲にては寒暑共に半靴を穿つものなし。赤皮の靴は米国欧洲ともに夏にかぎりて用ゆるも礼式には避くべきなり。然るに日本にてはフロックコートに赤皮の半靴はきたる人折々あり。これ紋付羽織袴にて足袋をはかざるが如きものなり。

○洋服はその名の示すが如く洋人の衣服なれば万事本場の西洋を手本にすべきは言ふを俟たざる所なり。然れども色地縞柄なぞはその人々の勝手なる故、日本人洋服をきる場合には黄き顔色に似合ふべきものを択ぶ事肝要なるべし。色白き洋人には能く似合ふものも日本人には似合はぬ事多し。黒、紺、鼠なぞの地色は何人にも似合ひて無事なり。英国人は折々狐色の外套を着たり。よく似合ふものなり。日本人には似合はず。縞柄あらきものは下品に見ゆ。霜降り地最も無事なるべし。
永井荷風「洋服論」)

 

どんな着物を着たいなどゝ思つたことは勿論ないが、こんなものを何時まで着てゐるのかなあと思つたことは度々ある。

外に出る時は洋服、家の中では和服に限るとは誰も云ふことだが、雨上りのぬかるみを高下駄でこねゆく風情もまた一興である。これは皮肉ではない。ぢつとしてゐる時ズボンの股ほど気になるものはあるまい。

しかし、和服を着て椅子に腰をかけると、何となく心細い。裾から風がはひるやうな気がする。――風だけならいゝが……。

新調の洋服など着込んで、賑やかな街を漫歩する気持、これは、想像するだけならいゝ。さて、飾窓に映る姿を見て顔を赤めずにはをられるものはない。変な縞のカウスなんかゞ袖から出すぎてゐなければまだしも……。

暖かくなつて、初めて外套を着ずに出た日は、裸で飛び出したほどバツが悪い。靴の大きすぎるのが目立つ。

それはさうと、冬、和服にメリヤスのズボン下を穿いて外に出ると、そのズボン下がどういふ加減か、いやにねぢれて、毛臑にからみつくのはうるさい。

インバネスは、夕暮れの通りを二人で歩く時だけにしたい。

晴れた日に黒絹の雨傘を持つて出る用心深さを僕は愛する。
岸田國士「衣食住雑感」)

2015年間の七夕

昔一人の老翁があった。瞿麦の花を栽えると天人が降りるということを聞いて、庭にその種子を蒔いて見ると、果して天人が降りて来て水に浴して遊んだ。その一人の羽衣を取匿し、困っている天人をつれ帰って、共に楽しく暮していたが、馴れるに任せて羽衣を匿したことを打明けたところが天人は早速その羽衣を捜し出して、それを着て天へ還ってしまった。その折に、もし私に会いたいと思ったら、厩肥を千駄積んでその上に青竹を立て、それに伝わって昇って来いと言ったので、男はその通りにして後から天へ昇って行った。天では別に何の用もないので、畠の瓜をもぐ手伝いをしていた。そうして天人の戒めを破ってその瓜を二つ食ったところが、たちまち大水が出て別れ別れになってしまう。これからはせめて月に一度だけ逢うことにしようと言ったのを、傍からアマノジャクが、なに一年に一度だぞと言ったので、今でもこの日だけしか逢うことが出来ない。
柳田国男「年中行事覚書」)

 

七夕は女の子のお祭である。女の子が、織機のわざをはじめ、お針など、すべて手芸に巧みになるように織女星にお祈りをする宵である。支那に於いては棹の端に五色の糸をかけてお祭りをするのだそうであるが、日本では、藪から切って来たばかりの青い葉のついた竹に五色の紙を吊り下げて、それを門口に立てるのである。竹の小枝に結びつけられてある色紙には、女の子の秘めたお祈りの言葉が、たどたどしい文字で書きしたためられていることもある。
太宰治「作家の手帖」)

 

嘉永三年七月六日の宵は、二つの星のためにあしたを祝福するように、あざやかに晴れ渡っていた。七夕まつりはその前日から準備をしておくのが習いであるので、糸いろいろの竹の花とむかしの俳人に詠まれた笹竹は、きょうから家々の上にたかく立てられて、五色にいろどられた色紙や短尺が夜風にゆるくながれているのは、いつもの七夕の夜と変らなかったが、今年は残暑が強いので、それは姿ばかりの秋であった。とても早くは寝られないので、どこの店さきも何処の縁台も涼みながらの話し声で賑わっていた。
岡本綺堂「半七捕物帳」)

 

お盆の代りに七夕をやる。織物地に七夕は当然かも知れないが、男女の星が年に一度あうという七夕は先祖の霊が年に一度もどってくるという盆に似ているし、桐生では七夕の竹飾りを川に流す。これも盆の行事に似ている。桐生が盆をやらないのは七夕で間に合わしているように思う。仏教の盆が七夕の行事に似せたのかも知れない。
坂口安吾「桐生中心」)

 

昔、私達は老いたる下男に連られて、寺の藪へ七月竹を切りに行つた。そして、二三日がゝりで書いて置いた、薄つぺらな色紙や短冊を紙縒で二本の竹に結へつけて、庭に立てた。短冊の文字の多くは、曾祖父が編纂して自費出版をした『七夕狂歌集』から撰んで写したのであつた。茄子で馬をつくつたり、玉蜀黍や胡瓜や大角豆などをいろいろな形にして集めたりして、小机の上に乗せて、七夕様に供へた。煎豆を重箱に詰めて置いて、七夕祭を見に来る村の子供に一握りづゝ施すのが常例になつてゐた。夜が更けると井戸で冷した西瓜を皆して食べた。
正宗白鳥「月を見ながら」)

海外旅行

ヴェロナ

 なるほど、………………………………。
 これがロメオとジュリエットの墓だな。大理石の棺には蓋がない。名刺がいつぱい投げ込んである。
 シェイクスピイヤの胸像が黒い蔦の葉の間からのぞいてゐる。
 そこで、絵はがきを売つてゐる。


トレント

 こんどはダンテの立像だ。見てゐると頸が痛くなる。

 オースタリイ軍に殺されたイタリイの薬剤師を憂国の志士と呼んでゐる。

 ――暑い。何といふ乾ききつたまちだ。


メラノ

 メラナアホフ、ブリストル、ベルヴュウ、サヴワ、パラス……。
 ――よろしい、ホテルなら、もう取つてある。

 林檎はまだ小さく、葡萄はまだ硬い。

 アヂヂ川をさしはさむアスファルト遊歩道路プロムナアド朝顔のやうな日傘の行列。
 音楽堂の「アイーダ」はアルプス猟歩兵聯隊の示威演奏。
 フランネルのズボンが大股に毛糸の頭巾ポネエを追ひかける。

「御紹介いたします、こちらは、なんとかモンチ公爵夫人、こちらは、なんとかスキイ伯爵」
 ウイ……ダア……シイ……ヤア……イエス……さやう、さやう、こいつはたまらない。


トラフォイ

 海抜三千五百メートル。チロル・アルプスの絶頂。
 世紀は星の如く流れる。
「未来」そのものゝ如き低雲に囲まれた広漠たる大氷原に、君は、たゞ一人、立つたことがあるか。
 ――痛い、誰だ、豆をぶつけるのは。


インニツヘン

 国境の上で草を食ふ牝牛、お前が尻尾を向けてゐる方がイタリイだらう?
 返事をしないな。それでは、あのキリストの十字架像にかう。


再びメラノ

 ドクトルC……の療養院サナトリウムはこゝだ。
 あの男はまだゐるだらうか。
 ――居る。窓に写真の乾板たねいたが乾かしてある。

「あたしは、どうしてかう人の名を忘れるんだらう。握手なら百度、散歩なら三十度、踊りなら六七度、接吻なら三度しなければ覚えない。」――と、ブカレストから来た女優といふのが云ふ。
 わたしはどうだらう。


メンデルパツス

 運転手、気をつけてくれ、おれの生命いのちはお前の掌中にあるんだ。
 なに、おれだけ殺すことは出来ないと云ふのか。
 静かに、静かに……お前と死んでなんとせうぞ。
岸田國士「チロルの旅」)

 

一人の女学生が答へて、「何とかさん。」と、仲間の一人を呼んで、「あなたは其方へ帰るのだから、この方に乗り換へを教へて上げなさい。」と云つたやうであつた。その女学生は同意したらしかつた。それで、そちら行きの汽車が来ると、私達夫妻を促してその汽車に乗らせて、自分も乗ることは乗つたが、私達の隣りの車室へ入つて行つた。そして、乗り換へ場所へ来ると、早くプラツトホームへ下りて、私達の下りて行くのを待つて、ストラツトフオード行の汽車を教へて、左様ならの挨拶をして別れた。

これだけの事でも、私達には外国旅行の面白さが感ぜられたのであつた。かの少女は、東洋の黄色人種と座席を共にするのを嫌つてゐたのであつた。極りを悪がつてゐたのであつた。
正宗白鳥「幼少の思ひ出」)

 

多少の不安の念は、旅行者に与うるに、旅行に必要な設備の具全からざるものとは異るところの一種の快感をもってするものである。言語不通の外国に旅行しても、なお一種の興味を感ずるのはすなわちそれだ。というとあるいはその場合における興味は不安の念からして来るのではなくして、新奇なる事物に接触することから来るところの快感だというかも知れぬが、新奇なものが何故に快感をひき起こすかというに、それもやはり不安の念を発せしむるからではあるまいか。不安の念はすなわち驚喜の感の前提である。何ごとも予期どおりになることのみが必ずしも旅行の興味ではない。
原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」)

 

「しかし、ここにいると奇妙なことも起るでしょうが、たしかにまともに理解出来そうもないことばかり、ふいふいと考えるようになりますね。僕もさっきから、どうも奇怪なことばかり頭に浮んで来て困りましたよ。これでパリへ行ったらどんなに自分がなるのか、想像がつかなくなって来ましたね。」

「あたしもそうなの。」

千鶴子は矢代の顔を見ながら、片頬の靨に快心の微笑を泛べて頷いた。

「これじゃ僕は外国の生活や景色を見に来たのじゃなくって、結局のところ、自分を見に来たのと同じだと思いましたよ。それや、景色も見ようし、博物館も見るでしょうが、何より変っていく自分を見るのが面白くて来たようなものですよ。今日一日で僕はずいぶん変ってしまいましたね。皆今夜帰って来て、どんな顔をして来るか、これや、見ものですよ。」
横光利一「旅愁」)

雨の日が楽しくなる方法

木の上ではまた、雨蛙と蝸牛とが雨を楽んでゐます。雨蛙は聞えた独唱家ですが、蝸牛はまた風がはりな沈黙家です。一人は葉から葉へと飛び移りますが、一人は枝から枝へと滑り往きます。雨蛙は芸人のやうに着のみ着のままでどこへでも出かけますが、蝸牛は霊場めぐりの巡礼のやうに、自分の荷物は一切合財ひつくるめて、背にしよつて出かけます。二人はたまに広い、青々した芭蕉の葉の上で出逢ふことがありますが、互に目礼のまま言葉一つ交さないでさつさと往き過ぎてしまひます。彼等はどちらも腹一杯雨を楽み、雨を味ひ、また雨に戯れるに余念がないのです。ぐづぐづしてゐると、雨がいつ霽れ上るかもわからないのを知つてゐますから。
(薄田淳介「若葉の雨」)

 

雨を好むこゝろは確に無為むゐを愛するこゝろである。為事の上に心の上に、何か企てのある時は多く雨を忌んで晴を喜ぶ。

すべての企てに疲れたやうな心にはまつたく雨がなつかしい。一つ/\降つて来るのを仰いでゐると、いつか心はおだやかに凪いでゆく。怠けてゐるにも安心して怠けてゐられるのをおもふ。

雨はよく季節を教へる。だから季節のかはり目ごろの雨が心にとまる。梅のころ、若葉のころ、または冬のはじめの時雨など。

梅の花のつぼみの綻ほころびそむるころ、消え残りの雪のうへに降る強降のあたゝかい雨がある。桜の花の散りすぎたころの草木の上に、庭石のうへに、またはわが家の屋根、うち渡す屋並の屋根に、列を乱さず降り入つてゐる雨の明るさはまことに好ましいものである。しやあ/\と降るもよく、ひつそりと草木の葉末に露を宿して降るもよい。
若山牧水「なまけ者と雨」)

 

近世の詩人に取つては、悲愁苦悩は屡何物にも換へがたい一種の快感を齎す事がある。白分は梅雨の時節に於て他の時節に見られない特別の恍惚を見出す。それは絶望した心が美しい物の代りに恐しく醜いものを要求し、自分から自分の感情に復讐を企てやうとする時で、晴れた日には行く事のない場末の貧しい町や露路裏や遊廓なぞに却て散歩の足を向ける。そして雨に濡れた汚い人家の灯火ともしびを眺めると、何処かに酒呑の亭主に撲られて泣く女房の声や、継母まゝはゝに苛さいなまれる孤児みなしごの悲鳴でも聞えはせぬかと一心に耳を聳てる。或夜非常に晩おそく、自分は重たい唐傘からかさを肩にして真暗な山の手の横町を帰つて来た時、捨てられた犬の子の哀れに鼻を鳴して人の後うしろに尾ついて来るのを見たが他分其の犬であらう。自分は家いへへ這入つて寝床に就てからも夜中よるぢゆう遠くの方で鳴いては止み、止んでは又鳴く小犬の声をば、これも夜中絶えては続く雨滴あまだれの音の中に聞いた……
永井荷風「花より雨に」)

 

昔の獅子舞歌に

大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる。

と歌われたが、今し、庭の芝生の緑を濡らし、霧島の紅きを濡らして降りつづく雨も、その源は大伽藍の内で、細く静かに揺れていた香の煙であったかと思うと、いよいよ雨が好きになる。
辰野隆「雨の日」)

 

梅雨の雨のしとしとと降る日には、私は好きな本を読むのすら勿体ない程の心の落ちつきを感じます。かういふ日には、何か秀れたものが書けさうな気もしますが、それを書くのすら勿体なく、出来ることなら何もしないで、静に自分の心の深みにおりて行つて、そこに独を遊ばせ、独を楽しんでゐたいと思ひます。

香を焚くのは、どんな場合にもいいものですが、とりわけ梅雨の雨のなかに香を聞くほど心の落ちつくものはありません。私は自分一人の好みから、この頃は白檀を使ひますが、青葉に雨の鳴る音を聞きながら、じつと目をとぢて、部屋一ぱいに漂ふ忍びやかなその香を聞いてゐると、魂は肉体を離れて、見も知らぬ法苑林の小路にさまよひ、雨は心にふりそそいで、潤ひと柔かみとが自然に浸み透つて来ます。この潤ひと柔かみとは、『自然』と『我』との融合抱和になくてはならない最勝の媒介者であります。私の魂が宇宙の大きな霊と神交感応するのもこの時。草木鳥虫の小さな精と忍びやかに語るのもこの時。今は見るよしもない墓のあなたの故人を呼びさまして、往時をささやき交はすのもこの時です。
薄田泣菫「雨の日に香を燻く」)

湯豆腐と猪八戒と道子の熱さ

誰も見る人がない…………よし…………思い切り手足を動かしてやろう…………道子は心の中で呟いた。膝を高く折り曲げて足踏みをしながら両腕を前後に大きく振った。それから下駄を脱いで駈け出してみた。女学校在学中ランニングの選手だった当時の意気込みが全身に湧き上って来た。道子は着物の裾を端折はしょって堤防の上を駆けた。髪はほどけて肩に振りかかった。ともすれば堤防の上から足を踏み外はずしはしないかと思うほどまっしぐらに駆けた。もとの下駄を脱いだところへ駈け戻って来ると、さすがに身体全体に汗が流れ息が切れた。胸の中では心臓が激しく衝うち続けた。その心臓の鼓動と一緒に全身の筋肉がぴくぴくとふるえた。――ほんとうに溌剌はつらつと活きている感じがする。女学校にいた頃はこれほど感じなかったのに。毎日窮屈な仕事に圧えつけられて暮していると、こんな駈足ぐらいでもこうまで活きている感じが珍らしく感じられるものか。いっそ毎日やったら――
岡本かの子「快走」)

 

茶わんから上がる湯げをよく見ると、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかります。締め切った室へやで、人の動き回らないときだとことによくわかります。熱い湯ですと湯げの温度が高くて、周囲の空気に比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに立ちのぼります。反対に湯がぬるいと勢いが弱いわけです。湯の温度を計る寒暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。もちろんこれは、まわりの空気の温度によっても違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。
寺田寅彦「茶わんの湯」)

 

崋山は或興奮に似た感情を隠すやうに、稍わざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹を披いて見せた。絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌を拊つて談笑する二人の男を立たせてゐる。林間に散つてゐる黄葉と、林梢に群つてゐる乱鴉と、――画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いてゐない所はない。
芥川龍之介戯作三昧」)

 

要はあつい豆腐にあつい醤油をつけて食べる方がいいか、あつい豆腐につめたい醤油をつけてはいけないか、という問題だ。

京都の永観堂とか通天とかに行くと、野外の冷たい空気に触れて照り輝く紅葉などを賞しつつ、湯豆腐をやる風流があるが、こうした寒きに過ぎた場合には熱い醤油もふさわしいが、部屋の中では強いてそうしなくていいことと思う。
北大路魯山人「湯豆腐のやり方」)

 

「竜になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」

「よし!」と八戒は眼を閉じ、印を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将が現われた。そばで見ていた俺は思わず吹出してしまった。

「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空が叱った。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、俺は。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした

「だめだめ。てんで気持が凝らないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」。
中島敦「悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―」)