おまえはもう書かれている

先人の知恵は偉大なり。

2015年間の七夕

昔一人の老翁があった。瞿麦の花を栽えると天人が降りるということを聞いて、庭にその種子を蒔いて見ると、果して天人が降りて来て水に浴して遊んだ。その一人の羽衣を取匿し、困っている天人をつれ帰って、共に楽しく暮していたが、馴れるに任せて羽衣を匿したことを打明けたところが天人は早速その羽衣を捜し出して、それを着て天へ還ってしまった。その折に、もし私に会いたいと思ったら、厩肥を千駄積んでその上に青竹を立て、それに伝わって昇って来いと言ったので、男はその通りにして後から天へ昇って行った。天では別に何の用もないので、畠の瓜をもぐ手伝いをしていた。そうして天人の戒めを破ってその瓜を二つ食ったところが、たちまち大水が出て別れ別れになってしまう。これからはせめて月に一度だけ逢うことにしようと言ったのを、傍からアマノジャクが、なに一年に一度だぞと言ったので、今でもこの日だけしか逢うことが出来ない。
柳田国男「年中行事覚書」)

 

七夕は女の子のお祭である。女の子が、織機のわざをはじめ、お針など、すべて手芸に巧みになるように織女星にお祈りをする宵である。支那に於いては棹の端に五色の糸をかけてお祭りをするのだそうであるが、日本では、藪から切って来たばかりの青い葉のついた竹に五色の紙を吊り下げて、それを門口に立てるのである。竹の小枝に結びつけられてある色紙には、女の子の秘めたお祈りの言葉が、たどたどしい文字で書きしたためられていることもある。
太宰治「作家の手帖」)

 

嘉永三年七月六日の宵は、二つの星のためにあしたを祝福するように、あざやかに晴れ渡っていた。七夕まつりはその前日から準備をしておくのが習いであるので、糸いろいろの竹の花とむかしの俳人に詠まれた笹竹は、きょうから家々の上にたかく立てられて、五色にいろどられた色紙や短尺が夜風にゆるくながれているのは、いつもの七夕の夜と変らなかったが、今年は残暑が強いので、それは姿ばかりの秋であった。とても早くは寝られないので、どこの店さきも何処の縁台も涼みながらの話し声で賑わっていた。
岡本綺堂「半七捕物帳」)

 

お盆の代りに七夕をやる。織物地に七夕は当然かも知れないが、男女の星が年に一度あうという七夕は先祖の霊が年に一度もどってくるという盆に似ているし、桐生では七夕の竹飾りを川に流す。これも盆の行事に似ている。桐生が盆をやらないのは七夕で間に合わしているように思う。仏教の盆が七夕の行事に似せたのかも知れない。
坂口安吾「桐生中心」)

 

昔、私達は老いたる下男に連られて、寺の藪へ七月竹を切りに行つた。そして、二三日がゝりで書いて置いた、薄つぺらな色紙や短冊を紙縒で二本の竹に結へつけて、庭に立てた。短冊の文字の多くは、曾祖父が編纂して自費出版をした『七夕狂歌集』から撰んで写したのであつた。茄子で馬をつくつたり、玉蜀黍や胡瓜や大角豆などをいろいろな形にして集めたりして、小机の上に乗せて、七夕様に供へた。煎豆を重箱に詰めて置いて、七夕祭を見に来る村の子供に一握りづゝ施すのが常例になつてゐた。夜が更けると井戸で冷した西瓜を皆して食べた。
正宗白鳥「月を見ながら」)