おまえはもう書かれている

先人の知恵は偉大なり。

海外旅行

ヴェロナ

 なるほど、………………………………。
 これがロメオとジュリエットの墓だな。大理石の棺には蓋がない。名刺がいつぱい投げ込んである。
 シェイクスピイヤの胸像が黒い蔦の葉の間からのぞいてゐる。
 そこで、絵はがきを売つてゐる。


トレント

 こんどはダンテの立像だ。見てゐると頸が痛くなる。

 オースタリイ軍に殺されたイタリイの薬剤師を憂国の志士と呼んでゐる。

 ――暑い。何といふ乾ききつたまちだ。


メラノ

 メラナアホフ、ブリストル、ベルヴュウ、サヴワ、パラス……。
 ――よろしい、ホテルなら、もう取つてある。

 林檎はまだ小さく、葡萄はまだ硬い。

 アヂヂ川をさしはさむアスファルト遊歩道路プロムナアド朝顔のやうな日傘の行列。
 音楽堂の「アイーダ」はアルプス猟歩兵聯隊の示威演奏。
 フランネルのズボンが大股に毛糸の頭巾ポネエを追ひかける。

「御紹介いたします、こちらは、なんとかモンチ公爵夫人、こちらは、なんとかスキイ伯爵」
 ウイ……ダア……シイ……ヤア……イエス……さやう、さやう、こいつはたまらない。


トラフォイ

 海抜三千五百メートル。チロル・アルプスの絶頂。
 世紀は星の如く流れる。
「未来」そのものゝ如き低雲に囲まれた広漠たる大氷原に、君は、たゞ一人、立つたことがあるか。
 ――痛い、誰だ、豆をぶつけるのは。


インニツヘン

 国境の上で草を食ふ牝牛、お前が尻尾を向けてゐる方がイタリイだらう?
 返事をしないな。それでは、あのキリストの十字架像にかう。


再びメラノ

 ドクトルC……の療養院サナトリウムはこゝだ。
 あの男はまだゐるだらうか。
 ――居る。窓に写真の乾板たねいたが乾かしてある。

「あたしは、どうしてかう人の名を忘れるんだらう。握手なら百度、散歩なら三十度、踊りなら六七度、接吻なら三度しなければ覚えない。」――と、ブカレストから来た女優といふのが云ふ。
 わたしはどうだらう。


メンデルパツス

 運転手、気をつけてくれ、おれの生命いのちはお前の掌中にあるんだ。
 なに、おれだけ殺すことは出来ないと云ふのか。
 静かに、静かに……お前と死んでなんとせうぞ。
岸田國士「チロルの旅」)

 

一人の女学生が答へて、「何とかさん。」と、仲間の一人を呼んで、「あなたは其方へ帰るのだから、この方に乗り換へを教へて上げなさい。」と云つたやうであつた。その女学生は同意したらしかつた。それで、そちら行きの汽車が来ると、私達夫妻を促してその汽車に乗らせて、自分も乗ることは乗つたが、私達の隣りの車室へ入つて行つた。そして、乗り換へ場所へ来ると、早くプラツトホームへ下りて、私達の下りて行くのを待つて、ストラツトフオード行の汽車を教へて、左様ならの挨拶をして別れた。

これだけの事でも、私達には外国旅行の面白さが感ぜられたのであつた。かの少女は、東洋の黄色人種と座席を共にするのを嫌つてゐたのであつた。極りを悪がつてゐたのであつた。
正宗白鳥「幼少の思ひ出」)

 

多少の不安の念は、旅行者に与うるに、旅行に必要な設備の具全からざるものとは異るところの一種の快感をもってするものである。言語不通の外国に旅行しても、なお一種の興味を感ずるのはすなわちそれだ。というとあるいはその場合における興味は不安の念からして来るのではなくして、新奇なる事物に接触することから来るところの快感だというかも知れぬが、新奇なものが何故に快感をひき起こすかというに、それもやはり不安の念を発せしむるからではあるまいか。不安の念はすなわち驚喜の感の前提である。何ごとも予期どおりになることのみが必ずしも旅行の興味ではない。
原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」)

 

「しかし、ここにいると奇妙なことも起るでしょうが、たしかにまともに理解出来そうもないことばかり、ふいふいと考えるようになりますね。僕もさっきから、どうも奇怪なことばかり頭に浮んで来て困りましたよ。これでパリへ行ったらどんなに自分がなるのか、想像がつかなくなって来ましたね。」

「あたしもそうなの。」

千鶴子は矢代の顔を見ながら、片頬の靨に快心の微笑を泛べて頷いた。

「これじゃ僕は外国の生活や景色を見に来たのじゃなくって、結局のところ、自分を見に来たのと同じだと思いましたよ。それや、景色も見ようし、博物館も見るでしょうが、何より変っていく自分を見るのが面白くて来たようなものですよ。今日一日で僕はずいぶん変ってしまいましたね。皆今夜帰って来て、どんな顔をして来るか、これや、見ものですよ。」
横光利一「旅愁」)