おまえはもう書かれている

先人の知恵は偉大なり。

大阪都構想

夢想の中に、肉食獣の野性の夢がある。猫のうちには、馴致されきれない何物かが残っている。
豊島与志雄「猫性」)

 

論理と直觀との結合は構想力において見出されるといひ得るであらう。構想力そのものは直觀的である、それは直觀的であつて論理的であるといひ得るであらう。創造的或ひは發見的であるべき認識は構想力の媒介に俟たなければならぬ。
三木清「論理と直觀」)

 

大阪という土地については、かねがね伝統的な定説というものが出来ていて、大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪は理解されていないと思うのは、実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って、横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。
織田作之助「大阪の可能性」)

 

僕は僕自身の生活において、この反逆の中に、無限の美を享楽しつつある。そして僕のいわゆる実行の芸術なる意義もまた、要するにここにある。実行とは生の直接の活動である。そして頭脳の科学的洗練を受けた近代人の実行は、いわゆる「本気の沙汰でない」実行ではない。前後の思慮のない実行ではない。またあながちに手ばかりに任した実行ではない。

多年の観察と思索とから、生のもっとも有効なる活動であると信じた実行である。実行の前後は勿論、その最中といえども、なお当面の事件の背景が十分に頭に映じている実行である。実行に伴う観照がある。観照に伴う恍惚がある。恍惚に伴う熱情がある。そしてこの熱情はさらに新しき実行を呼ぶ。そこにはもう単一な主観も、単一な客観もない。主観と客観とが合致する。これがレヴォリユーショナリイとしての僕の法悦の境である。芸術の境である。

かつこの境にある間、かの征服の事実に対する僕の意識は、全心的にもっとも明瞭なる時である。僕の自我は、僕の生は、もっとも確実に樹立した時である。そしてこの境を経験するたびごとに、僕の意識と僕の自我とは、ますます明瞭にますます確実になって行く。生の歓喜があふれて行く。
大杉栄「生の拡充」)

 

大阪的な反逆といふのは、まことに尤もなやうで、然し、実際は意味をなさない。ともかく大阪といふところは、東京と対立しうる唯一の大都市で、同時に何百年来の独自な文化をもつてゐる。おまけに、その文化が気質的に東京と対立して、東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で、東京に懐古型の通とか粋といふものが正統であるとすれば、大阪は新型好みのオッチョコチョイの如くだけれども実質的な内容をつかんでをるので、東京の芸術が職人気質名人気質の仙人的骨董的神格的なものであるとき、大阪の芸術は同時に商品であることを建前としてゐる。かくの如くに両都市が気質的にも対立してゐるのだから、東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、大阪の名に於て行はれることも、一応理窟はある。

然しながら、大阪は、たかゞ一つの都市であり、一応東京に対立し、在来の日本思想の弱点に気質的な修正を与へうる一部の長所があるにしても、それはたゞその点に就てだけで、全部がさうであるわけでもなく、絶対のものではない。反逆は絶対のものであり、その絶対の地盤から為さるべきものであつて、一大阪の地盤によつて為さるべきものではない。
坂口安吾「大阪の反逆」)

 

年寄も若者も一緒になつて賑はしく歌を唄つて躍つた。

彼處に五日、此處に三日といふやうにして、かれ等は次第に國の方へと近づきつゝ放浪して行つた。
田山花袋歸國」)